寛解に向かう明日

生き残れ!統失サバイバーかなえの日記

短編小説「花柄」1

コーラルピンク、ピンクベージュ、アプリコットピンク。

似たような色の口紅がずらりと並ぶ売り場を見て、ユキちゃんはひどく驚いていた。私もあんまり詳しくはないけれど、とりあえずユキちゃんに似合いそうな色を比べ始める。ピンク系が良いというユキちゃんには、本当はオレンジ系のはつらつとした色のほうが似合うような気もする。売り棚の前にしゃがみ込んで口紅を見ていると、ユキちゃんが見張りのように立って、きょろきょろとあたりを見回していた。


 「ユキちゃん、そんな風にしていると、まるで万引きするみたいに見えちゃうじゃん」
私が言うと、
「口紅ってこんなに種類があるんだね。知らなかった」
ユキちゃんはしみじみと言った。私はうなずきながら、
「こういうの詳しくないけどさ、たぶん、もっと大きい店だったらもっとあると思うよ」

と、言いながらユキちゃんに似合うのはアプリコットピンクだと思った。オレンジがかったピンク色で、明るくてかわいらしい色だった。

「よし。ユキちゃん、これがいいよ」
私が口紅のテスターを指さすと、
「わぁ、かわいい色」
とのんびりした感想が返ってきた。
「ユキちゃんにはこれが一番似合うよ」
「ほんとに?」
「嘘なんてしょうもないこと言わない」
ユキちゃんはテスターをじっと見つめて、
「ありがとう。これにするよ」

私は口紅を手に取ると、レジへ向かった。ブランド物なんかじゃない、ドラッグストアで買えちゃうような、安い安い口紅だ。山積みにされた特売のボックスティッシュの陰から、ユキちゃんはじっとこちらをうかがっていた。そんなに気にしなくてもいいのに、と私は思わず笑ってしまいそうになる。

レジを通るとユキちゃんが駆け寄ってきて、私は買ったばかりの口紅、おつり、レシートを手渡した。大事そうにそれらを鞄にしまいながら、ユキちゃんは何度もお礼を言った。
「本当に、ありがとうね」
「いいって。気にすんなって」
「本当は自分で買えたらよかったんだけれどもね。だめだね」
「だーいじょうぶ。気にするな」
ドラッグストアを出て、川沿いの道を二人で歩く。
五月の日差しが少し暑い。このまま歩いていくと、潮のにおいがしてきて海へ出る。
「もうすぐ、二年経つね」
ユキちゃんがぽつりと言った。
「ね、このまま歩いてみる?くじらに会いに」
私は黙ってうなずいた。
「マコトと出会ってからも、二年だね」
まぁそれより前から知っていたんだけど。と、ユキちゃんは呟いた。
「くじらってさ、バカだったよね」
私は言った。
「どうしようもないバカ。ほんとにバカだったよ」
ユキちゃんは笑って、
「口紅、大事にするよ」
と言った。私は「ユキちゃんもバカだよ」と笑った。

700円もしない口紅を、彼は本当に大事にするだろうと思ったから。


ユキちゃんの本名は、岩田直樹、という。
ユキ、なんて名前のどこにもつかない。それは彼が自分で考えた、ハンドルネームだからだ。
私たちは中学三年生のとき、インターネットのあるホームページで知り合った。

ツイッターフェイスブックといったつながりが流行っている一方で、個人運営のホームページはどんどん廃れていった。
管理人が居て、ホームページが気に入ったら掲示板で交流して仲良くなって。そんな形でのネットでのつながりは、今は珍しくなっていた。

私たちが出会ったのは、「くじらのねごと」というホームページだった。私もユキちゃんも、そのサイトの常連だった。
管理人は「くじら」という十九歳の専門学生だった。気が強くて、繊細なくせに大雑把な、変な奴だった。
くじらは毎日かかさず日記を書いていてホームページに載せていて、痛々しくも赤裸々なその日記は、ネットで(一部の人たちにだけど)評判だった。私もユキちゃんも、くじらという人間に惹かれていた。

くじらは、体は女だけれど、心は男だった。一人称は「俺」で、「女なんてバカみてぇ」が口癖だった。口癖って言うか、日記にそう何度も書いていた。
くじらの日常は荒んでいて、専門学校にはほとんど通わず、代わりに精神科に通っていた。たくさんの睡眠導入剤精神安定剤を処方されていた。くじらはそれを真面目に飲むわけでもなく、クッキーが入っていた箱に貯めこんでいた。
父親はいなくて、母親と二人暮らし。母親には複数の男がいて、めったに帰ってこないと日記に書いていた。

くじらと最初に仲良くなったのは、ユキちゃんだった。掲示板に書き込みをしたのだ。
ユキちゃんは、体は男だけれど心は女だ。ちょうど、くじらと真逆。

「誰にも言えず、ひたすら隠している。それが苦しい。くじらさんの気持ち、すごくわかります。日記、毎日読んでいます」

ユキちゃんは確かこんな感じの書き込みをした。私は掲示板も眺めていたから。そしてくじらと仲良くなっていった。そのあと、しばらくして私も書き込みをした。ハンドルネームは、マコト。

「花柄、って気持ち悪いと思いませんか?女の柄、みたいな気がして嫌です。私は女だけど女が嫌い。男も嫌い。性別って、バカみたいですよね」

私の書き込みに、くじらはでかでかとしたフォントでこう返事をした。

「同感!」

思わず吹き出してしまった。それからわたしはくじらと仲良くなって、くじら経由でユキちゃんとも仲良くなっていった。
くじらはホームページにパスワード付きのチャットルームを作った。メンバーは、私とくじらとユキちゃん。
たまに、くじらが気に入った人が入室してくることもあったけれど、基本的には三人でしゃべっていた。そのうちに私たちは偶然、同じ県内に住んでいることを知る。

<すごくない?この偶然>
<いや、これは必然なんだよ>
<何カッコつけてんだよ>
<じゃあ今度いつかオフ会しよう!会って話したいじゃん>
<いいね、会いたいね>

くじらはあのでかでかとしたフォントで、
<賛成!> 

でも、そのオフ会は実現することはなかった。
くじらは貯めこんでいた薬を全て飲み、喉に吐瀉物が詰まり、窒息死してしまったのだ。二年前の五月。ちょうどゴールデンウィークが終わるころだった。

くじらの日記の更新が途絶えたことを心配した私は、オフ会の時のために聞いていた住所に向かった。海の近くにある、四階建てのアパート。くじらの家。
もう日が暮れかかっていて、うす暗いなか、アパートから出てきた一人の少年を私は見つけた。ユキちゃんだった。

「ユキちゃん…?」

私が声をかけると、彼はうなずいて「マコトだね」と言った。初めて会ったユキちゃんは、背が高くて色の白い、ひょろっとしたエノキダケみたいな少年だった。ユキちゃんはアパートを見上げて、
「あの四階の角部屋に、住んでいたそうですよ。持っていた薬全て飲んで、くじらは、死んじゃった」
振り絞るようにユキちゃんは言った。

ユキちゃんは、くじらのお母さんとも話したそうだった。ユキちゃんによると、くじらの母親は優しそうな人で、少なくともくじらの日記に出てきた母親のイメージとはまったく違ったそうだった。
くじらが亡くなったことを知り、ほろほろと泣き出したユキちゃんに、「あの子と仲良くしてくれてありがとう」とくじらのお母さんは泣いた。くじらのお母さんは、水商売をしていたらしい。別に、複数の男がいるわけでも、なんでもなかった。

「わたしが、ちゃんとあの子を見ていてあげていたら、こんなことにはならなかったのに」
そう呟いたくじらのお母さんに、なんて言ったらいいのかわからなかったとユキちゃんは言った。そして悔しいと泣いた。「くじら、年上のくせに子どもすぎるんだよ!バカだ、くじらはバカだよ」わたしもバカだと思った。バカ。できることならあのでっかいフォントで「バカ!」って打ち込んでやりたかった。

くじらもバカだけど、バカが死んで泣いている私たちはもっとバカだ。

くじらに会いに、海へ向かう私たちは、なんでもない話をする。
昨日行ったファミレスのドリンクバー、メロンソーダがめちゃくちゃ薄かったんだよ。あれ、絶対水で薄めているよ。とか、そんなん。そのなかで、ユキちゃんはもうすぐ高校で弁論大会があると話していた。成績優秀なユキちゃんは、舞台に立ち大会に出るらしい。

「すごいね。ってか弁論って何?未成年の主張?みたいな感じ?」
私が訊くと、
「うーん、違うっちゃ違うんだけれども。まぁ、そんな感じ」
と答えた。

「へぇ、何について話すの?環境問題とか?少子高齢化エコロジーについてとか?」
「カミングアウト、かな」

え、戸惑った表情を見せた私に、ユキちゃんは立ち止まって私の顔を見据えた。

「カミングアウトって…」
「女子の制服着て、全部話すの。今まで言えなかったこと全部。今日買った口紅も付けてね」

どうだ、と言わんばかりに得意げに話すユキちゃんに、私は思わず口から「かっこいい…」とこぼれ出た。
いい、それ最高だよユキちゃん!私がユキちゃんの背中をバシバシと叩くと、痛い痛いとユキちゃんは笑った。「でも、」
と、私はちょっと不安になって尋ねた。
「大丈夫なの?その、弁論大会のあととかは、平気?」

ユキちゃんは一瞬表情を硬くして、でもまたすぐに笑って、
「大丈夫じゃないかもしんない。平気でいられないかも。でも、自分に素直になってみたら、何か変わる気がするからさ。それが良い意味だとしても悪い意味だとしても、何かは、変わるよ」

そう言うとユキちゃんはまた歩き始めた。きっと、くじらにもこのことを伝えるつもりなのだろう。私は駆け出して、ユキちゃんの前に立った。

「ユキちゃんに、マコトからひとつアドバイスがあるよ。ユキちゃんの学校って校則厳しいじゃん?だから、口紅とか、校則違反だと思うんだよね」

ぷっと、ユキちゃんは吹き出した。「今更、校則違反なんて気にするの?」
「だってユキちゃんは優等生なんだからさ」

そして、私たちは海に向けて、川沿いの道を歩き始めた。