寛解に向かう明日

生き残れ!統失サバイバーかなえの日記

短編小説「花柄」2

くじらがまだ生きていてユキちゃんと私でチャットをしていたころ、ユキちゃんは心とは反対にどんどん男へと成長していく体に苛立ちと悲しみを覚えていた。

<ネットで女性ホルモン剤って買えるよね?>

唐突に聞いてきたユキちゃんに、私はパソコンの画面の前で固まった。

<体が、男になっていくのが嫌なんだ。体毛が濃くなって、髭が生えてきて、声変わりもして。一番嫌なのが性欲が出てくることなんだ。もう嫌だ。耐えられない>

私がキーボードの上で指をさまよわせていると、

<なに?おちんちんが起きちゃったわけかよ?>

と、くじらのらしくない言葉が浮かんだ。

<は? くじらちょっとひどいよ。こっちは真剣に悩んでいるのに>
<そうだよ。くじら、謝んなよ>

しばらく何も表示されない画面を、私は息をひそめるようにじっと見つめた。くじら、もしかしてまたちょっとラリってるのかな、なんて考えながら。くじらはたまに、処方されている精神安定剤をつまみにお酒を飲むことがあった。そんなときのくじらは支離滅裂としていて、話にならないほど妙なテンションだった。

<くじら?聞いてんの。またらりってるの?>

ユキちゃんも同じことを思ったらしく、こう聞いてきた。
けれどくじらは何も発さず、いつもなら文字化けしたようなヘンテコな文章が並ぶのに、これはおかしいと私は感じた。そして、おとといのメールのことが、くじらの気にかかっているのかもしれないと思い始めていた。

それは、ユキちゃんには話していない、私とくじらしか知らない話だ。
ホームページにあるメールフォームから、私はくじらに長いメールを送ったのだ。

 

「ユキちゃんは女に憧れているみたいだけれど、私は女なんてまっぴらごめんだ。男も女も、嫌いだ。
私が中学二年生の時、塾の帰り道だった。夕方の六時過ぎ。まだ外は明るかった。駅から家まで歩いていたら、男の人に声をかけられた。「これ、君のじゃない?」って私の趣味じゃないキーホルダー見せられた。「違います」って言って帰ろうとしたら、口をふさがれ抱え上げられて、路上に止めてあった車に押し込まれた。まだ明るかったし、こういうことが起こるなんてやっぱり信じられなかった。殺されるのかな、とか思った。でも、それが終わると、男は私を放り出して、車は走り去っていった。ほんとに、涙なんかでないもんだよね。
家に帰ると、お父さんとお母さんと妹が食卓で笑ってテレビ見ながらごはん食べてたの。「おかえり」って。「遅かったね、もうごはん食べちゃってるわよ」って。
私は「先にお風呂入る」って言ってお風呂場へ向かった。家族の笑い声が洗面所まで聞こえた。洗面所の鏡をにらみながら、私を女に生んだ母を憎んだ」


メールの返事は次の日に返ってきた。内容は、

「俺も男も女も嫌いだけど、マコトには共感はするけど同情はしない。でも、多分この話はユキにはしないだろうから、俺も黙っておく。何も言えないし言うつもりもないけれど、メールでも話してくれてありがとう」


という簡潔でくじららしいメールだった。「辛かったね」とかいう安っぽい言葉がなくて、私は安心できた。
聞いてもらった方は楽になるけれど、聞いてしまった方はどうなるのだろう。
新たな苦しみを、背負うことにはならないだろうか。

<ユキ、ごめん。俺、ちょっとどうかしてた。ごめんな>

ようやくくじらは言葉を発した。そして、

<でも俺が言えたことじゃないけれど、ネットで薬なんか買うな。お前はまだ若いし、大人になってからホルモン剤飲んだって注射したっていいだろ。とにかく、今はやめとけ>

珍しく、くじらが年上の大人らしい発言をした。
私も、きっとユキちゃんも、パソコンの画面の前で驚いていた。

<ま、マジでお前に言われたくねぇよって感じだけどな。俺って何様?って感じだし(笑)>

 

川の終わりと海の始まりまで歩いてきた。途中、喉が渇いたので自動販売機で飲み物を買った。
私はお茶。ユキちゃんはメロンソーダ。そして、くじらの分のミネラルウォーター。

「あいつ、飲み物は水しか飲まなかったよね」
私は言った。
「バカだからさ、食べものもろくに食べないで、薬と酒ばっか飲んでてさ。たまに飲むのがミネラルウォーター。しかも硬水しか飲まないっていう妙な健康志向」
ユキちゃんは笑って、バカなんだよぉ、くじらは、と言った。そして、
「こうして笑えるのってすごいよね」
と言った。

「だって、くじらが死んでからまだ二年しか経っていないんだよ?くじらのことなんか何一つ忘れてなんかいないのに、もう「あいつはバカだったよね」って笑えているんだよ。それって、ちょっとすごくない?」ごくごくとペットボトルのお茶を飲む。お茶が、体中に沁み込む感覚がする。
「さすがくじら、だよね」
私はにやりと笑って言った。それから、
「でもたぶんそれは私たちが大人になったってことだと思うよ」
私たちは海を目指して歩き始める。


くじらがまだ生きててチャットをしていた頃、ふと、くじらが私たちにこんなことを聞いたことがあった。

<ふたりのハンドルネームの由来って何?よかったら教えてや>

くじらは、なんであんなことを聞いたのだろう。

<私は、マコトって実は本名なんだ。中性的でしょ?気に入ってるからそのままハンドルネームとして使っているよ>
続けて、
<ユキってのは、アルプスの少女ハイジって知ってる?あの子ヤギのユキちゃんから名前を取ったんだ。色白だしね(笑)>

と、ユキちゃんもハンドルネームの由来を語っていった。

<くじらは?>
<そうそう。くじらの由来ってなんなの?>

<…俺さ、海が好きなんだ。海にいる生き物のなかでくじらが一番好きなわけ。だってデカイじゃん?ちょっと聞いてみたかったんだ、特に深い意味なんてねぇよ>

ハンドルネームの由来の話をしたのは、それが最初で最後だった。
私たちはくじらの死後、くじらの本名と本当の由来を知った。
「優美」というのがくじらの名前だった。優しくて美しい、いかにも女の子って感じの名前だ。くじらはこの名前にきっとコンプレックスを感じていたのだろう。そういうやつだったから。

くじらのお母さんに、ユキちゃんは話したそうだ。自分と優美さんはインターネットを通じて知り合ったこと。ネットでのハンドルネームはくじらだったこと。それを知ったお母さんは泣き出してしまったらしい。あわてたユキちゃんに、くじらのお母さんは言ったそうだ。
「あの子と水族館に行ったとき、くじらのぬいぐるみを買ってあげたんですよ。まだ父親もいて、家族三人で出かけた最後の思い出だったんです」

くじらは、どこまでもバカでセンチメンタル野郎だ。いや、乙女って言ってやる。センチメンタル乙女だ。

私は、私もユキちゃんも、くじらが大好きだったのだ。

 海にたどり着いたころには、もう夕方になっていた。
潮のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、私たちは防波堤をどこまでも歩いた。波は穏やかで、まるで海の上を歩いているみたいだと私は思った。

「くじら、お前さんのすきなミネラルウォーターだぞ、しかも硬水」
ユキちゃんはそう言うと、ペットボトルから勢いよく水を海に流していった。
やがて歩いていくと行き止まり、私たちはアスファルトの上に座り込んだ。
「なんで、くじらは死んだのかな」
しばらくの沈黙のあと、ズボンについた砂をはらいながら、ユキちゃんは言った。
「死んじゃうのも、一瞬なんだ。一瞬ですべてがなくなっちゃうんだ。そりゃ死んでしまいたくなることなんていくらでもある。けどさ」
間を開けて、こう続けた。

「それはあきらめたのとおんなじなんだよ。最近分かってきたんだけれど、もう生まれてしまった以上はどうしようもないわけじゃん?男がいいとか女がいいとか、もっとお金持ちでもっと美人でとか、キリがないじゃん。そこで文句言って、何もしなかったら終わり。死んでしまったら、本当におしまいじゃん。でもさ、とりあえず不満だらけでも生きていたらさ、なんか変えられるんだよなーって気づいた」

私は履いていたスニーカーと靴下を脱ぎ裸足になり、防波堤のアスファルトを踏みしめた。足の裏が、じりじりと熱い。

「くじら、見てるか」
自分でも驚くような大声で、私は叫んだ。
「くじら、あんたはこの世界をあきらめたんだ。でもまだ私たちはあきらめてないよ。この世界で生きていくこと、あきらめてない。男とか女とかじゃなくて、マコトはマコトとして、ユキちゃんはユキちゃんとして生きて見せるんだ。あきらめないから」

一呼吸息をつないで、

「ねぇ知ってる?ユキちゃんは全部カミングアウトするんだよ。あのユキちゃんがだよ。すごいでしょ、頑張ってるでしょ。マコトも、頑張るから。……だから、くじらはせいぜい悔しがってあの世で見ておけよ!」

涙が、おもしろいようにボトボトと零れ落ちた。海の風が吹いて、潮の香りがして、私の着ている花柄のワンピースの裾を揺らした。
見てるか、くじら。これが今の私たちだ。二年間でこんなに変わった。マコトが、気持ち悪いって言ってた花柄のワンピースを着て、ユキちゃんがすべてをカミングアウトするんだよ。すごいだろ。変われるんだよ。

生きている限り、ひとはどこまでも変われるんだよ。

くじらだって、生きていたらきっと性別や名前のコンプレックスなんか乗り越えて、「バカみてぇ」って笑えてたんだ。三人で遊ぶことだってできたんだよ。

でももうくじらは変われない。
死んでしまったら、もうそこで止まったまんまだ。生きているからこそ、前へ進んでいく。私たちを見ていてね。これから、ずっとずっと見ていてね。

「ユキちゃん」
私は手で涙をぬぐいながら言った。
「ユキちゃんの弁論大会、私も見に行ってもいい?」
もちろん、とユキちゃんは笑ってうなずいた。

「ユキちゃんにね、ユキちゃんの発表に、たとえどんな反応を周りがしても、私は精いっぱいの拍手を送るね。あれ、なんていうんだっけ?立ち上がって拍手をするの」
スタンディングオベーション?」
「そう、それ。それやるからね、絶対」

私たちは声を上げて笑った。風が頬を撫でるようにすり抜けていく。
きっと私たちはあきらめずにこの世界を生きていくだろう。くじらが死んだ十九歳を飛び越えて、二十歳になって、年を重ねて大人になっていく。

「くじら、見ていてね」

潮風がひゅうと吹く。心地の良い風だ。花柄のワンピースが、生きているみたいに揺れた。 

 

終り